永瀬廉の芝居は憑依型か否か。
(いつの話?っていう遠い昔に書いた個人のメモなので時差には目をつぶってください…)
おかえりモネ の放送が始まり、間もなく4週目に突入する。
(出だしからいつの話やねんってな…)
廉くん演じる及川亮くん。
放送前からその役どころに、『第二の主人公では…?!』と期待に胸を膨らませていたが始まってみて確信。
第二の主人公です(です)。
私は演技や芝居に精通していません。ただ、芝居を見るのはとても好き。観た作品の数も多くはないし、新規開拓したいというよりは何年も何年も同じ作品ばかり観て満足しているようなタイプなので、ドラマ•映画•舞台合わせたところで通な方の比にもならないでしょう。それでも私は芝居を見るのが好きで、一丁前に好きな役者さんもいるし一丁前に好きな作品もあって、それらについては一丁前に話がしたいタイプの視聴者なので今日は一丁前に好きな役者の話をしようと思う。
永瀬廉っていうんですけど。
永瀬廉くんのお芝居。
憑依型か否か。(改めて)
りょーちんの纏うダダ漏れな色気とそれに伴う憂いや儚さもだけど、弱虫ペダルで100人抜きする坂道くんが陽炎の中からひめひめぺったんこ歌いながら自転車漕いでやって来た時にも思った。あれはお芝居の域超えていたな、と。ああいう時に思う。これが俗に言う、憑依…というやつ…なのか?
憑依型。
結論から言うと、私はそう表現されることに対してどことなく違和感があり腑に落ちていないのでした。
廉くんは憑依型じゃないんよ。共に、なんよ。命を預かって、廉くんの中で共に生きてる。そういう廉くんの芝居が凄く好き。弱虫ペダルを見て(憑依…してるわ。)って思う瞬間もあるんやけど、決して取り憑かれたわけではなくて、しっかりキャラを分析、構築した上で廉くんの中から生まれたものだから。
— ✩✩✩ (@YYIv16IHJBDCfQL) 2021年6月8日
永瀬廉くんにとって"おかえりモネ"の及川亮くんはハマり役だと思う。でもここで廉くんにりょーちんが憑依している、と表現することに個人的にはやや抵抗があるのです。りょーちんが廉くんに『取り憑いている』と表現するのは違うのかな、と思ったんですよね。一丁前な感想ですけど。
廉くんの演技は"構築型"であり"俯瞰型"。こう解釈する方がストンとくる。
異論は認めます。加えて言うとこれは褒めてます。それはもう、めちゃめちゃ。
役者に於いて"憑依型"って称賛されがちで、実際素晴らしい才能だと思うし、そう評される役者さんの演技はやはり凄いな〜と感心する。
これは好きな役者のひとりである稲葉友くん(私の大好きな仮面ライダーマッハの中の人!)の話になるのですが、とある舞台で熱演され、終演後舞台袖に捌けるも放心状態にあり、なかなか自我が戻らず共演者の方に「戻ってこい!」と抱き締められたことで漸く我に返り、途端に涙が溢れて暫く泣き止むことが出来なかった──というエピソードがあって、これを聞いた時に(あーこういう人を"憑依型"というのだな。)と思った。何をもってして"憑依"と捉えるのかは一概に言えないけれど、この件に関しては、ホンモノの役者、おったわ…。と本気で思ったのでした。
芝居のパターンがいくつかあるとして、そのひとつに"憑依型"があるのなら、また別のパターンに"構築型"も存在すると思っていて、演劇界隈でよく耳にするワードとしては"俯瞰型"というパターンもあるのですよね。その違い?わからんよ。私素人やし。それに、そのどれもが自分ではない誰かに命を吹き込み演技していることには変わりないもんね。
元も子もない話をしてしまったけど、グルグルと考えてしまうタイプのファンなのでここまで読んでまだお付き合いいただけそうならこの先いよいよ廉くんについてお話ししたいのでもう少しだけ読んでもらえますか。
亮について「モテ要素の役作りは苦労していない」としながら(いっそ清々しくて大好きな永瀬廉であった)、廉くんが『亮ならこんな時どうするかな?』と想像を張り巡らせ、自身の中に元々備わっている優しさの部分を120%引き出し、監督や時に父親役の浅野忠信さんと語らいながら共に細かい描写にまで気を配る。そうして 及川亮 というひとりの人間を丁寧に作り込んでいく様はまさに"構築型"と言えると思う。
永瀬廉という名を役者として浸透させるきっかけになった日本アカデミー賞新人賞受賞作品•映画 弱虫ペダル でも、廉くんが様々な媒体で作品を振り返る場面にて、演じた小野田坂道くんをまるで本当に実在する友人かのように語る様子が見受けられた。これ自体がキャラクターを客観視出来る"俯瞰型"であると言えるのかな、とも思ったり。
廉くん自身、亮を語る時は決まって"りょーちん"と呼んでいて、その理由が『"亮"っていうより役と仲良くなれそうかなと思って。』だったことがとても好きな永瀬廉さんの役との向き合い方で、いつまでもこの『役と仲良くなる』感覚を忘れないでいてほしいなと思った。
— ✩✩✩ (@YYIv16IHJBDCfQL) 2021年6月8日
この、実在する友人かのように語るっていうの、今まさにりょーちんと廉くんの関係性にも感じていることだなーって思って、廉くんの役への向き合い方とか、役者としての在り方みたいものの一貫性を感じてまたひとつ廉くんの役者としての好きなところが増えちゃったよね。
亮と自分自身で通ずる部分に深く相槌を打ちながら、それでも「僕には亮の生き方は出来ない」とハッキリ線引きする廉くん。それは亮のようになりたくないのではなく亮の生き方をリスペクトしているからだし、同時に自分の生き方にも胸を張れている証拠。ちゃんと 永瀬廉 という立場からキャラクターを見れているんだよね。「亮にはどうか無病息災でこの先も長生きしてほしい」と願っていた廉くんは、ここでもやっぱり亮を実在する人物のように語っていて、それもまた印象的なのでした。
廉くんはりょーちんに取り憑かれているのではなく、命を預かっているみたいだなって思う。
りょーちんの言いたいことを代弁するのではなく、りょーちんに言わせてあげる為に体を貸してあげているような。憑依させてあげているような。廉くんがりょーちんの心臓を預かって、芝居の中で丁寧に『生きる』をしてくれるから、りょーちんが本当に存在するかのように感じるのだろうな。
(追記↓
亮がモネに「好き」と言わなかった理由も『モネに対しては色々な気持ちがあるのよ、亮は。』と言って誰よりも心情を汲んでくれた廉くんは、俺ならこうする。ではなく、亮のしたいように、と体を貸してくれた。りょーちんの想いを尊重して演じてくれたあのシーン、憑依とはこのことを指すのだと思った。
— ✩✩✩ (@YYIv16IHJBDCfQL) 2021年10月16日
今日のツイートではこのシーンを憑依と言い表したけれど、過去の自分の言葉を引用させていただくと、やっぱり"憑依 させてあげている"ように感じる。これもまたひとつの憑依型のカタチなのかな。怒りという感情のコントロールの話(TL参照)も、廉くんは取り憑かれるタイプではなさそうだから感情にコントロールされることなく、自らで怒りも涙も操るし引き摺ることもないのかな?と思った。)(知らんけど。)
でも、亮に漂う憂いや儚さは確かに廉くんの中から生まれたもので、こうやって潜在的に廉くんの中に存在している"アイドルの永瀬廉"とは全くの別人格を引き出して魅せてくれるキャラクターたちには敬愛しかない。廉くんを変身させてくれてありがとう。廉くん今、自分ではない誰かになれることが楽しいって言ってくれてるんだよ。それは廉くんがこれまで演じたキャラクターたちが魅力的な子達で、花穎さま、千空くん、明智、小野田くん、りょーちん…みんなが廉くんと友達になってくれたからだと思ってるよ。
芝居なんて考えるな!感じろ!だと思うし、役者の演技パターンを分析するなんてナンセンスかもしれないけど、廉くんの演技に対するインプットしようという溢れんばかりの意欲や、それらをアウトプットする為にこれからも積極的にお芝居に取り組みたいという気持ちを知ってしまったからには語らずにいられなかったです。あースッキリ。
ここまでお付き合いくださった方はありがとうございました。
もしかしたらこの文章、どこにもアップすることなくただの掃き溜めとしてiPhoneのメモに眠り続けることになるかもしれないけど、それはそれでいつか思い出して読み返すかゴミ箱に行くかだろうね。まぁそれもいいとしよう。
おかえりモネ、まだまだ始まったばかりですが楽しみましょう!
…というのが10月現在、iPhoneのメモに残っておりまして。
いつもこう。大体こう。メモかツイッターの下書きに溜まっていくのよな。
結局どこにアップされることなく本当に眠り続けていたので発掘したついでに供養させていただきますね。
おかえりモネ、残り二週。
泣いても笑っても、残り二週。
及川親子の行く末を見守り、
廉くんのお芝居を噛み締めましょ〜!
☆☆☆